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おととい12月14日は赤穂浪士討ち入りの日だった。それを記念し、NHKも歴史系2番組(歴史秘話ヒストリアBS歴史館)も忠臣蔵・赤穂浪士討ち入りについて特集していた。しかし、私ゃ天邪気のせいか忠義の武士とか武士の鑑なんぞと褒めそやしたり、12月14日になると必ず取り上げられるのには抵抗がある。

まずはこの元禄15年12月14日という討ち入りの日、元をただせば江戸時代は月の満ち欠けを基準にした太陰暦である。すると14日というのは満月に近い状態で隠密裏に行動を起こすことができなかったわけで、やはり吉良上野介が在宅していたからと言えるだろう。それから太陰暦の12月14日は太陽暦では翌1703年の1月30日のことだそうで、一年で最も寒い時期だから江戸でも雪が積もっていたわけだ。

そして赤穂浪士の主君、浅野家は豊臣秀吉の妻ねねの養家・浅野家の兄である長政の次男が広島藩・浅野本家となり、3男が赤穂浅野家の藩祖となった家柄で5万石とはいえ塩の製造などで藩政は豊かだったようである。そんな浅野家がつまづくのは第3代藩主長矩(ながのり)、すなわち浅野内匠頭(たくみのかみ)のときである。

その浅野内匠頭は元禄14年(1701年)幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられ、その礼法指南役は天和3年(1683年)のお役目の時と同じ吉良上野介義央(よしひさ)だった。そしてその仕事の最中に松の廊下で斬りかかり、捕まって即日切腹という仕儀に相成ったわけである。

原因は浅野の個人的な遺恨とされている。吉良上野介が礼法指南役として賄賂を要求したとか、田舎侍などとパワハラをしたとか過去の大河ドラマなどでは語られてきている。しかし茶道や華道でも教えを請うたら授業料を払うのは当たり前だろう。払わないのが非常識であるし、吉良家は礼法指南役の高家。でも5000石に満たない財政状況だから礼法指南で食べているようなもの。グチのひとつも言いたくなろうというものだ。

しかもそれで逆ギレして斬りかかってくるようなお坊っちゃまだから礼法を指南しても覚えもきっと悪かったのだろう。

もっと悪いことは5万石の大名家、家臣も何百名といるのに逆ギレしてしまったこと。それによって多くの家臣が路頭に迷うことなどわからなかったのか?いかにも短絡的である。お坊っちゃまなのか性格的欠陥があったのかはわからないが、堀部安兵衛は殿様に心酔していたようだからヤンキーとかカブキ者だったのかもしれない。いずれにしても困った殿様だったわけである。

敵役である吉良上野介も突然斬りつけられただけでも迷惑なのに、さらに隠居していたところを夜中に徒党を組んで襲撃され、自らは殺され、お家は取りつぶしなんて理不尽としか言いようがない。そのあたりのことは吉良家の領地だった現西尾市吉良町では吉良の殿様は名君として通っていることからも明らかなのではないだろうか。

もちろん、忠臣蔵のお話は美談としての正義とかご政道に対するアンチテーゼなど民衆の願望が反映されて歌舞伎その他で脚色されてきたのであろう。

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[2011/12/16 01:01] 歴史 | トラックバック(-) | CM(2)

No Subject

「四十七、吉良でなくとも、割り切れめえ」

世の中、割り切れないことが多いですなあ。
という教訓でした。
[2011/12/16 08:48] じじい47 [ 編集 ]

No Subject

じじい殿、メッチャうまい。
そういえば私ゃ47に妙にからみます。
卒業の年もそうだし、同期入行の人数も47人でした。
[2011/12/16 10:02] ナワ〜ルド@峠おやじ [ 編集 ]

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